旧神戸生糸検査所のあゆみ
かつて日本の文化や産業を発信する拠点だった旧神戸生糸検査所
慶応3年(1868年)に神戸港が開港して以来、港を介して海外の様々な文化・技術・情報が取り入れられ、それらが、日本の生活文化とうまく融合す ることで、現在の神戸らしさである「まちなみ」、「くらしの文化」、「ものづくりの技術」が発展してきました。これまでの神戸の生活文化、そして関連する 産業の独自性の源泉は港を通じて形作られてきたといえます。
そして、神戸港は同時に、日本の文化・産業を世界に向けて発信する場でもありました。この旧神戸生糸検査所は、まさにその拠点でありました。明治政府が生 糸を当時の日本の最重要輸出産物と位置づけ、農商務省のもとに横浜と神戸に生糸検査所が置かれ、その品質の向上が図られました。これにより、20世紀初頭 に日本は世界最大の生糸輸出国としての位置を確立しました。東海道、近畿地方、中国地方、四国、九州の製糸工場で生産された生糸が、神戸生糸検査所の品質 検査を通じて神戸港から輸出されていました。旧神戸生糸検査所は、かつての日本の文化・産業を世界に向けて発信するための重要な拠点であったといえます。

開港当時の海から見た神戸
現在の旧神戸生糸検査所は、旧館が昭和2年(1927年)、新館が昭和7年(1932年)に完成しました。庁舎の設計者は、旧館が清水栄二、新館が 置塩章で、いずれも神戸の近代建築史を語る上で重要な建築家であります。神戸の玄関口たる神戸港の施設として、そして、当時の日本の最重要産物であった生 糸の品質を保証する機関としての威厳のある特徴的なデザインが内観及び外観の至るところに取り入れられています。
また、旧神戸生糸検査所は、神戸税関、新港貿易会館、倉庫群と並んで、新港突堤西地区を代表する景観上の重要な建築物であり、近代神戸の歴史を物語 る貴重な近代産業化遺産であるといえます。そして、旧神戸生糸検査所は、阪神大水害、第二次世界大戦における神戸大空襲、阪神・淡路大震災という3つの大 きな災害を乗り越え、みなとまち神戸を代表する建築物としてのたたずまいを今もなお語り継いでいます。

建築当初の旧館

建築当初の新館

建築中の生糸検査所(写真右)

建築当初の総荷取扱場
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